3月11日、忘れられない日。
この一年が長かったのか、あっという間だったのか、わかりません。
地震、大津波、原発事故、、、
一年経つ今もまだ苦しい状況にある方も沢山いらして、この災害の大きさを改めて感じます。
===
私自身、私の身の回りのことを振り返ってみる。
何が怖かったこととして覚えているかというと、
まず最初に家族や友人知人の安否が確認できない時間でした。
当時私は横浜で家の中にいて、あまりにも長い揺れでしかもどんどん大きくなるので
「まさか関東大震災が来てしまうのか?」と思いました。
しかし、すぐさまTVで横浜駅近くの強烈な地割れや、ボウリング場の天井が落ちたとか
関東の放送局内映像の強烈な揺れの映像をみて、我が家の辺り(横浜北部)は
まだ揺れがマシだったのだとわかりました。
しかしそれは、自分が体感したよりも、外では大変なことになっている可能性が高いということ。
都内に勤務している旦那やそれぞれの実家(どちらも北関東)や妹に電話をしますが、
全く繋がりません。どこにも繋がりません。家の電話も携帯も。メールも送信が進まない。
TVでは次第に事の大きさが明らかになっていき、東京沿岸部でビル火災、
千葉ではなんと石油コンビナートも大爆発して炎上している。
さらに東北では見たこともない大津波が町中を巻き込んでいくという恐ろしい映像が。
そして茨城も千葉も津波被害が出ていると。
交通もストップ。都内もビルの上から壁?が降ってきたり大混乱の映像。余震もずっと続いている。
極めつけは両実家ともに震度6と!震度6って、、、。
しかも霞ヶ浦大橋が一部落ちているではないですか!!!
自分は無事だし大丈夫だと思えた。でも実家のあたりは?みんなは!?
とにかく安否を知りたくて何度もなんども連絡を試みますが繋がらないのです。
ただ、落ちついて今やれる事をしておこうと、水を溜めたり持ち出し荷物を作ったり、
ネットで自分の無事を伝えたりして自分を駆り立ててはいましたけれど。
結局、家族全員の無事を確認できたのは夜になってからでした。
全員と繋がったことで緊張が緩み電話口で思わず涙声になってしまいました。
大切な人達が無事であるかどうか、
それを確認できない時間が私にとっての一番怖い時間でした。
===
私は無事で家族も安否が確認できた。
それでも実家は電気水道などライフラインを失い、家の中は色々倒れ、キッチンなどは
食器やガラスが散乱してダンボールを敷いた上を靴で歩かなければいけない状態に。
姉の職場はなんと天井が落ちスプリンクラーで水浸しになったそうです。
コンビニもスーパーも自販機も、当日の夕方に空っぽになったそうで
2~3日後位に、父に食料は手に入ったか聞くと「お昼はみかんだけ食べれた」とか、、><
そんな時、ガソリン不足と道路、交通手段の断絶で、会いにいけなかったのも辛かったです。
自分が行けないだけでなく、運送業もストップしてましたから、何か送ってあげたくても
それすらも出来ない。自分とはなんと無力なのだろうと思いました。
しかし震災とは、このような事態が起こりうるということなんですね。
そして原発事故もありましたから本当に心配でした。
しかし、もっと大変な方々のことを思えば本当に本当に、感謝しなければと思いました。
===
一年経った今でも、
実家の姉の小学生の子供達は、母親である姉と共に1階の部屋で寄り添って寝ています。
2階で寝るとか、子供達だけで寝るとか、今までの寝室とか怖いと言っていました。
震災当日の朝まで寝室としていた部屋の箪笥が倒れたそうですから、
確かにそこではもう怖いよね。>< 今も茨城は強い余震が多いですしね。
そして原発のこともやはり心配はつきません。
今回被災地の中では比較的被害が軽いと思われる茨城南部の実家でもこんな感じなんです。
ならばさらに津波や原発などで被害が大きかった方々は、、、
もっともっとお辛い体験をされた方々は、、、
今もなお先が見えない不安や心配が続いている状況の方々は、、、
その心情は、それはもう、想像をはるかに超えるものだと思います。
気持ちが分るだなんて、とても簡単には言えません。
それでも、想いはこれからもずっと向けて行きたい。感じていきたい。考えて行きたい。
自分に出来ることも。
振り返る3月11日であり、新しい3月11日に向けて。祈りを込めて。
===
そして明日というか夜が開けたら、今日は実家に行ってきます!
て、書き終わった今ちょうど、また地震が来た~><
しかも茨城北部で5弱って、、、関東直下のこともあるし、まだまだ心配です。
この一年が長かったのか、あっという間だったのか、わかりません。
地震、大津波、原発事故、、、
一年経つ今もまだ苦しい状況にある方も沢山いらして、この災害の大きさを改めて感じます。
===
私自身、私の身の回りのことを振り返ってみる。
何が怖かったこととして覚えているかというと、
まず最初に家族や友人知人の安否が確認できない時間でした。
当時私は横浜で家の中にいて、あまりにも長い揺れでしかもどんどん大きくなるので
「まさか関東大震災が来てしまうのか?」と思いました。
しかし、すぐさまTVで横浜駅近くの強烈な地割れや、ボウリング場の天井が落ちたとか
関東の放送局内映像の強烈な揺れの映像をみて、我が家の辺り(横浜北部)は
まだ揺れがマシだったのだとわかりました。
しかしそれは、自分が体感したよりも、外では大変なことになっている可能性が高いということ。
都内に勤務している旦那やそれぞれの実家(どちらも北関東)や妹に電話をしますが、
全く繋がりません。どこにも繋がりません。家の電話も携帯も。メールも送信が進まない。
TVでは次第に事の大きさが明らかになっていき、東京沿岸部でビル火災、
千葉ではなんと石油コンビナートも大爆発して炎上している。
さらに東北では見たこともない大津波が町中を巻き込んでいくという恐ろしい映像が。
そして茨城も千葉も津波被害が出ていると。
交通もストップ。都内もビルの上から壁?が降ってきたり大混乱の映像。余震もずっと続いている。
極めつけは両実家ともに震度6と!震度6って、、、。
しかも霞ヶ浦大橋が一部落ちているではないですか!!!
自分は無事だし大丈夫だと思えた。でも実家のあたりは?みんなは!?
とにかく安否を知りたくて何度もなんども連絡を試みますが繋がらないのです。
ただ、落ちついて今やれる事をしておこうと、水を溜めたり持ち出し荷物を作ったり、
ネットで自分の無事を伝えたりして自分を駆り立ててはいましたけれど。
結局、家族全員の無事を確認できたのは夜になってからでした。
全員と繋がったことで緊張が緩み電話口で思わず涙声になってしまいました。
大切な人達が無事であるかどうか、
それを確認できない時間が私にとっての一番怖い時間でした。
===
私は無事で家族も安否が確認できた。
それでも実家は電気水道などライフラインを失い、家の中は色々倒れ、キッチンなどは
食器やガラスが散乱してダンボールを敷いた上を靴で歩かなければいけない状態に。
姉の職場はなんと天井が落ちスプリンクラーで水浸しになったそうです。
コンビニもスーパーも自販機も、当日の夕方に空っぽになったそうで
2~3日後位に、父に食料は手に入ったか聞くと「お昼はみかんだけ食べれた」とか、、><
そんな時、ガソリン不足と道路、交通手段の断絶で、会いにいけなかったのも辛かったです。
自分が行けないだけでなく、運送業もストップしてましたから、何か送ってあげたくても
それすらも出来ない。自分とはなんと無力なのだろうと思いました。
しかし震災とは、このような事態が起こりうるということなんですね。
そして原発事故もありましたから本当に心配でした。
しかし、もっと大変な方々のことを思えば本当に本当に、感謝しなければと思いました。
===
一年経った今でも、
実家の姉の小学生の子供達は、母親である姉と共に1階の部屋で寄り添って寝ています。
2階で寝るとか、子供達だけで寝るとか、今までの寝室とか怖いと言っていました。
震災当日の朝まで寝室としていた部屋の箪笥が倒れたそうですから、
確かにそこではもう怖いよね。>< 今も茨城は強い余震が多いですしね。
そして原発のこともやはり心配はつきません。
今回被災地の中では比較的被害が軽いと思われる茨城南部の実家でもこんな感じなんです。
ならばさらに津波や原発などで被害が大きかった方々は、、、
もっともっとお辛い体験をされた方々は、、、
今もなお先が見えない不安や心配が続いている状況の方々は、、、
その心情は、それはもう、想像をはるかに超えるものだと思います。
気持ちが分るだなんて、とても簡単には言えません。
それでも、想いはこれからもずっと向けて行きたい。感じていきたい。考えて行きたい。
自分に出来ることも。
振り返る3月11日であり、新しい3月11日に向けて。祈りを込めて。
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そして明日というか夜が開けたら、今日は実家に行ってきます!
て、書き終わった今ちょうど、また地震が来た~><
しかも茨城北部で5弱って、、、関東直下のこともあるし、まだまだ心配です。
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